りきすいの郷(さと)

テキスト系の記事とか、ネタ系の記事とか書きます。

葛藤

※この記事は2019年1月29日に執筆を始め途中で力尽きたために1年以上も放置していたものをわざわざ掘り起こして完成させたものです。そのため現在の筆者の生活状況とは一部を除いて大きく異なるため混乱を招く恐れがありますが、恐怖を勇気へと変えることができたその時こそ、人は強く逞しくその命を煌めかせることができるのです。きたねえ花火のような魂を持つ筆者の命は煌めいたところで終わりかけのサイリウムと良い勝負、ワンチャン負ける恐れすらありますが古くから儚きものは美しいと相場が決まっております。これが…私…?

 

 

 

突然だが、私にはお金が無い。

"お金が無い"と言っても、全く無いわけではない。幸い働かせて頂ける職場があり、一定の収入はある。そもそもお金が全く無いのであれば憲法で保障されているところの最低限文化的な生活とやらを送ることすら叶わないわけで、もしそうなれば当然このブログも幕引き。終わりである。

とは言えのっぴきならない事態は風雲急を告げる勢いであり、鉄火場に舞う塵同然の私には悠長に構えているような余裕は無いのであった。

 

私は現在、勤め先で事務職に従事している。事務職というのをざっくりと説明すると、書類整理、電話応対、来客対応といった仕事をこなしていくものである。顧客情報などを整理し、データ入力をすることもあるので、その仕事には正確性が求められるが、肉体的な消耗は極めて少なく、流れを覚えてさえしまえば専門性を要求されることもないので、言ってしまえば"誰でもできる仕事"であり、その作業単価は安い。当然私に支払われる賃金も安い。私だけが特別扱いを受けることなどはないのだ。世界は残酷なほどに平等で美しく、そして非情だ。

そうして心もとない賃金を頂いた私は、分不相応にも一人暮らしなどしているので、家賃や生活費等一定の支出を余儀なくされているのだが、必要の無いところで後先を考えず浪費していく性分であるので、毎月の収入を上回る支出を繰り返している。ポケットWi-Fiとか、絶対にいらないだろうなっていうものをまんまと口車に乗せられて契約してしまう。自宅も職場もWi-Fi環境完備なのに。そうして火中の栗を拾うような生活によって定額の支出を積み上げ、必要な出費を差っ引くと自由に使えるお金はなんと月に1万円程度しか残されていないほどに切迫しているのだ。出費を差っ引く…我ながら小気味良いテンポで言葉を紡いでしまった。才能が怖いとはこのことか。こんな調子で話をはぐらかしてしまうのも、私の本能が事態を恐れているからなのだろうな。まったく、私は弱い人間だ。

そう、お金の話だ。月1万円程度しか残されていないほど切迫しているのにも関わらず、有難いことに結構な頻度で飲み等に誘われたりする。酷い月には7万円くらい交際費で飛んでいくので、これはもう1万円ではどう足掻いても乗り切れないのである。考えてもみてほしい。7万円もあれば、ちょっと良い焼肉に10回も行ける。ちょっと良い焼肉に10回も行くわけがないのに、どうしてもそんなことばかり考えてしまう。追い詰められている私は、どうせならと気休めにパチンコなどに興じてみる。どう考えてもあんなに姦しい(かしましい)場所で気が休まるわけがないのだけど、勝ちさえすれば一時的に安寧を得ることができる素晴らしい場所なので足繁く通うしかない。逆に負けてしまった時には生まれてきたことを後悔しながら涙を流し、過ぎ去った時に想いを馳せることしかできなくなるのだが、それは当然負けなければ済む話なので何ら問題無いのだ。何せパチンコに行かなければ勝つことはできないのだ。言い換えれば行きさえすれば勝てるので、これはもうパチンコに行く以外の選択は有り得ず、最善策とすら言える。人間は賢く強か(したたか)に生きるべきである。とは言え、お金というのはそれを持つ人間の元にしか巡ってこないというのはどうやら本当らしく、私の"お金と呼ぶのにはあまりに儚いそれら"は手元から次々と巣立ち、経済の歯車を回す手助けをするべく潤滑油へとその姿を変え、以降彼らが故郷へと帰ってくることは無かった。いや、収まるべきところへ帰って行った、と言うのが正しいか。

次第に預金口座の残高も尽き果て、いよいよ今までのような生活を送ることすら困難となってきたところで、私はついに対策を講じる必要に迫られることとなった。

 

 

私の住む単身者用マンションは、1Kで7.7帖の部屋に風呂とトイレが分かれているのにも関わらず家賃はリーズナブル、しかもマンション横にはコンビニという好条件である。

私は出勤前に横のコンビニで昼食を購入し、それを職場に持って行ってカロリーを摂取していたのであるが、あまり物価の高くない田舎におけるコンビニ飯のコストパフォーマンスが悪いということは"犬がワンと吠え、猫がニャーと鳴く"ように当たり前のことであるので、金銭的に切迫している私をじわり…じわり…と追い詰めるのに当然そう時間はかからなかった。じわり…じわり…と言っているのに時間はかからなかったなどと言うのは矛盾しているんじゃあないか?と揚げ足を取られそうではあるが、体感的には実際そうであったのだから仕方がない。追い詰められた人間の感覚なんてのは、そんなものである。

"地上100mの高さから落下すれば死ぬ"よりも明白にコスパの悪い食事をしているのは良くない。かと言って人間の尊厳を欠いたような、そんな食事はしたくない。コスパ良く人間の尊厳を守る食事を摂る方法……

そんなものがあるものか、あるわけがない。あっていいはずがないだろう。生産者さんに失礼だろ。私としたことが礼儀を欠いてしまったようだ。解散だ解散。こんな私の戯言に付き合ってくれてありがとう。せめて、私は抗い続けよう。

 

自己破産する、その時まで…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年までの私なら、きっとここで終わっていただろう。だが2019年が幕を開けるその時、私の、いや、俺の脳天を稲妻が貫いた。そうだ!簡単なことじゃないか!こんなことにも気付かなかったなんて!2019年の俺は違うぜ。人間を舐めるなよ。舐めるんじゃねえぞ生産者。

まるでシャブでも打ったんじゃあないかというように頭がスッキリし、こんこんと湧き上がるアイディアの泉を泳ぎ回り疲れ果てた俺は、元日にパチンコを打って負けた。

鉄火場を後にした俺は家に帰って泣いた。元日早々、漢泣き。幸先の悪過ぎるスタートに涙を堪えることができようか。男が人生で泣くのは親が死んだ時とパチンコに負けた時と相場が決まっている。パチンコで一発大当てして返り乱れ咲くという俺の計画は完全なる失敗に終わった。

だが、人が生きる以上そこには必ず成長を伴うものだ。失敗さえも糧とし這い上がることができるのが人間の矜持。極限まで追い詰められた俺に、ついに真の天啓が舞い降りたのだった。

 

「お弁当を、作るのです」

 

暗闇の中、たしかに聞こえた声(CV:早見沙織)が俺の身体を突き動かした。そうして、2019年の俺は昼飯を作って持って行く生活をしようと決意するのだった。

俺は本業のOJ(オフィスジェントル)とは別に、知り合いの営む飲食店でアルバイトもしている。なぜか?って、それは賃金が心もとないからだ。なぜ賃金が心もとないかと聞くのなら、この記事のふりだしに戻ってみてほしい。そしてここまで戻ってきたのならまた、ふりだしに戻ってほしい。そうして永遠に循環する輪廻の闇に囚われて二度と出てくるな。お前をお前たらしめるお前自身の手によってお前から解き放たれるのだ。

アルバイトは気楽だ。しかもそれが個人の営む飲食店とくれば、もうやりたい放題だ。チェーン店ではないので、店名晒し上げで店員の態度が悪いなどとネットに拡散されることもなく、シフトは本業との兼ね合いも考慮して調整してくれる。「バイトがしたい!」と言ってきたので紹介した俺の後輩は月に2日しかバイトに出ていないが、何も文句を言われない。しかしそんな胆力俺には無いので、平均週3日程度のシフトで駄賃を稼がせて頂いている。…にも関わらず月の余裕が1万円程度しか残らないのは、まさに俺の無計画さの賜物だ。この場合、意味合いはぼんやり通じるのだとしても果たして"賜物"という言葉が適切か否かについては少々考える余地があるだろう。だってそんな状況賜りたくないのだから。脱線してしまった。失敬。

全国にチェーン展開しているような大手の飲食店では、まかないで料金を取られるなんて話もよく聞く。俺が以前とある和食チェーンでアルバイトをしていた時なんて、1日7時間以上の勤務をしないとまかないを食べられない上に、定額の50%の料金がバイト代から天引きされるという、まかないという目的にはかなりハードルの高いシステムだった。しかし現在の俺がアルバイトをしているのは個人が営む居酒屋である。前述の通り個人経営の飲食店なんてのはなんでもありのやりたい放題なので、当然まかないも無料である。それにしても”まかない”という言葉選びが良くない。まるで給料とは完全に別物であるかのような扱いだ。給料とは形の違いこそあれ正当な労働の対価と解釈しているので、これは真っ当な報酬なのだ。支給される料理であるまかないもまた、給料である。

違う、俺の給料観なんて今はどうでもいいんだ。いつの世も話は脱線するものだが、今宵はどうにも調子が良い。そう、弁当だ。まかないを持ち帰る際にはタッパーを預かっている。そのタッパーに米と食材をぶち込むことで弁当はいともたやすく完成する。しかしそんなものを弁当と呼んでいいのだろうか。否。それはただの栄養分だ。お前が遠足に赴いた時タッパーを開けるか?開けないだろう。仮にタッパーに詰め込んだ料理を食事と呼ぶことができたとして、タッパーに詰め込む料理はプロの料理人が作ることによって辛うじて食事という概念のその形骸を保つことができるのだ。だが俺がしようとしているのは高校の文化祭でチャラついた運動部の小僧が完成度の低いコピー漫才を披露するようなものだ。素人が作ったものをタッパーに詰めた時点でそれは永久に完成することのないパズル。未完成品ではない、不完成品である。お前は病院での点滴を食事と呼ぶのか?呼ばないだろう。ウイダーinゼリーによるエネルギー補給を食事と呼ぶのか?呼ばないだろう。食事と呼ぶに値しない摂食行為はただの栄養摂取だ。タッパーに詰められた素人の飯を食うということは前述のそれらと同等だということだ。我々人類はいい加減に気付くべきなんだ。つまりは食事という形骸を保つためには適切な”器”が必要であるという事実に。お弁当箱という器が必要なんだよ!!おい!!!

 

とにかく善は急げ。気が付くと近場のニトリに俺はいた。お弁当箱がどこに売っているのかを正直よく知らなかったので、とりあえず家具を扱う店ならそのヒントも掴めるだろうということでニトリだ。そして答えはニトリにあった。食器コーナーのすぐ隣にお弁当箱コーナーがあった。あったのだが、いかんせん数が少なかった。参考となる写真なども無く本当に申し訳ないのだが、書店の官能小説コーナー程度のバリエーションと言えばお分かり頂けることだろうか。そのような環境下では候補を絞るのも容易いことだが、そもそも候補に上るものも少なかった。しかし俺は3つの候補を見つけ出したのだった。

 

 

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1段の弁当箱は良い。なんたって入り切りさえすれば好きなものを好きなバランスで好きなだけ詰めることができるのだから。頭の悪い俺でもちゃんとぶち込むことができる。しかもこのタイプは蓋のロックも丈夫で汁モレを防ぎ、電子レンジでの加熱も良しときている。職場には電子レンジがあるため、ホカホカ弁当を食べることができるのは嬉しい。

 

 

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上のものが機能性に優れているのならばこちらは容量だ。古来より大きいこと多いことは良いこととされてきた。「大は小を兼ねる」なんてことわざも存在するくらいだ。しかしこちらはレンジ対応については不明瞭。使えないことはないのだろうが説明が無い以上はレンジの使用にそれなりのリスクを伴う。目先の容量を追った結果自らを窮地に追い込むことにもなり得る。ここは慎重に考えたい。

 


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こちらは2段の弁当箱だ。様式美に特化したという点において1段の弁当箱とは一線を画す存在である。一方の段には米を惜しげもなく敷き詰め、もう一方の段はおかずで美しく装飾を施すことができる。それはさながら仕事のできるキャリアウーマンが家ではジャージでカップ麺をすすってるかのようでちょっとドキドキさえする。料理は目で楽しむものだとかの豊臣秀吉も言ったそうだ。元々農民上がりの豊臣秀吉は、質素だった農民時代より「せめて見た目だけでも華やかな食事を」をモットーに食事の装飾にはうるさかった。なるほど、後に天下統一を果たす男の気高い精神がこのエピソードからも窺える。小煩くうんちくを垂れてしまったが、まさしく2段弁当は目に楽しい食事をするにはもってこいのツールと言えるだろう。ちなみに豊臣秀吉のくだりは真っ赤なデタラメだ。

 

 

 

 


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以上、A,B,Cの3つが候補として出揃った。ここからは各々の利点欠点を踏まえつつじっくりと考察していきたいところだが、

 

 

 

 


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早くもBは脱落した。お箸どうするの?問題が発生したためである。

Bの弁当箱は蓋をドーム状にすることで容量においてAとの差別化を図ったのがポイントだったが、残念ながらそれが箸入れを蓋から切り離すという愚行に走らせることとなったのだ。それはつまり蓋と箸入れの洗浄行程が別々になるということ。要するに洗い物が増えるということだ。Bの弁当箱にしたが最期、未来永劫に蓋と箸入れとを別々に洗い続けなければならない。時は金と言うが、俺の余生を全て費やして蓋と箸入れとを別々に洗う時間を考えればちょっと世界を救っちゃうくらい造作も無いのかもしれない。こんなにも無意義な時間の使い方は無い。狂った年寄りの金持ちかよ。

 

 

 

さて、前述のようにAは機能性に優れている。何よりレンジ対応が保証されていることはかなり大きく、また1段のため洗い物の手間が少なく済むというのも大きな利点だ。対してCは2段であるため、おかずの段については装いを綺麗に飾ることができる(俺のセンスについては今は考えないものとする)。また、その昔人々の地位の高さが住む土地の標高に比例したほど、生物は本能的に高いことに強さを見出すものである。それゆえに高いものが人気なのだ。2段ベッドやタワーマンション、楼(ろう)などがその代表といえよう。

ということで、ここからはAとCそれぞれの欠点について触れたい。

 

 

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まずはAだ。力強さと垢抜けなさを兼ね備えた風貌はさながら中学生野球部のようですらあるが、その垢抜けなさこそが欠点と言える。ご飯とおかずとを好きなバランスで詰めることができるが、その間に仕切りが無いことが欠点となるのだ。おかずの持つ汁分をご飯が吸ってしまいグジュグジュになってしまう。食べれば同じことではあるが、周りの者から「あ、この人のお弁当グジュグジュ…」と気にされてしまうのは避けたい。お弁当がグジュグジュの人間が何を言ってもその言葉には重みが無く説得力を持たないからだ。

 

 

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次にCだが、グジュグジュにならずに済むとは言え1段のものと比べると洗い物が倍に増えてしまう。女性がスキンケアや化粧に時間と手間をかけるように、美を追求することに時間は不可欠である。欠点がそれだけならまだ納得もいこうものだが、肝心なのはその容量バランスだ。俺のお弁当の黄金比率は米とおかずの割合が8:2だ。おかずが美味しければ当然米も進むし、米が無ければおかずのポテンシャルを最大限発揮することは難しい。その塩梅をちょうど保てるのがこの比率であり、両者が互いを必要とする以上どちらか一方でも欠けることがあってはならない。このバランスではお米に先立たれた未亡おかずが自暴自棄になってしまうかもしれないのだ(いやまあ俺が食べるんだけど)。

 

 

 


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困った。比率と手間要らずだがグジュグジュになるわんぱく弁当Aか、見た目の美を追求した薄幸の美弁当Cか…

一方を追えばもう一方を失い、欲をこいて全てを得ようとすれば求めた全てを失うというのは世の常である。ときめきメモリアルで各パラメータを上昇させれば体力を失い、体力を回復させればせっかく上昇させたパラメータを下げてしまうのと同じことである。我々人類がそのようにして多くの犠牲を払いながらも今日まで進歩を続けてきたのも際限無く変わりゆくこの宇宙の営みのその一つであるように、俺のお弁当箱チョイスもこの宇宙に生きとし生ける全ての生命が連綿と受け継いできた命の躍動そのものなのであると、俺は理解している。故に中途半端な回答を出すわけにはいかない。ここでの妥協は即ち怠惰であり、そのような侮辱を晒そうものならば先達の怒りを買い、俺はついに輪廻転生の理からも脱落させられかねないのだ。

悩みに悩んでさらに悩みを増やし悩み続け、未だ結論を出せないまま呆然と立ち尽くし止まったままの俺の時間を置き去りにするように、世界は回り続けている。ニトリに着いてから1時間30分が経った頃、俺のスマホが震えた。友人からの着信である。

 

友「仕事終わったけん飯行こーや」

俺「今、ニトリでお弁当箱どれにするか悩んどるんよね」

友「まあ行くわ

 

程無くして友人はニトリにやって来るや否や、2秒でAの弁当箱に決めてくれた。まじで2秒だったと思う。我ながら良き友人を持ったものだと、この時ばかりは思った。決断するにはほんの少しの後押しが欠かせないものである。俺が後を押しかねている時、いつだって仲間が導いてくれた。大切なのは仲間だったんだ!仲間の大切さを知った俺はきっとこの先挫けそうな時も立ち上がることができる。もっと強くなるぞ!

 

俺 た ち の 闘 い は こ れ か ら だ ! !

 

 

 

 

 

 

 

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後日、お弁当箱にギチギチに詰められたチャーハンと相見えることとなる。お弁当箱いーっぱいのチャーハン食べたーい♡という心の欲求に従ってのことであるが、米2合分のチャーハンは昼食には重く、またパラパラ過ぎて箸で食べるにはあまりにもイライラしてしまった。

お弁当箱とギチギチのパラパラチャーハンは相性が悪い、という知見を得た。