りきすいの郷(さと)

テキスト系の記事とか、ネタ系の記事とか書きます。

生命

8月31日(火)晴れ

やや変則的な勤務体制のため、前日は休みであった。そのため、火曜日であるが本日は休み明け。世間様からは1日遅れてのスタートである。が、休み明けの気怠さに規則的であろうが変則的であろうが変わりはない。俺の感じる休み明けの気怠さは全ての勤労人が理解できるはずだ。特にこの日は早出、定時より1時間早い出勤をしなければならなかった。しかし憂いていても始まらない。朝食の卵かけご飯をかっ込み、身支度を済ませると足早に家を出た。

俺の住む家は4階建ての単身者用マンションのその最上階。エレベーターなんて気の利いたものは無く、自らの足で駆け降りた方が早いのでその必要性すら感じてはいない。今日も小汚い階段を軽快に駆け降りて行く。単身者用マンションなんてのはどこも治安が悪く、そこに住まう輩の行動には気品の欠片もありはしない。清潔さも無く、うちのマンションでは蜘蛛の巣が張り巡らされており廊下や階段をただ通るだけで顔や腕にへばりついてることもある。こんなのはまだマシで、共用ポストの周辺には不要なチラシが散乱、隣のセブンイレブンで買ったであろうサラダチキンのゴミが2階廊下に放置してあること多数、ひどい時では階段の踊り場に放尿されていることもあった。こんなところいつかオサラバしてやろうと考えはするが、一人暮らしを始めて5年と4ヶ月、ズルズルと暮らすうちにその治安の悪さにも慣れてきた。だがこの日は初めて、階段の隅にプチトマトが添えてあった。最下に通じる階段の、中途半端な段で2段に分けて一粒ずつ。いつから置かれているものかはわからないが、見た目はまだ新鮮そうであった。少なくとも昨日の朝には無かったものと思われる。これまでちゃんとした食べ物が置いてあることなど無く、また何者かが意図的に配置したとしか思えない状況に一瞬の内で濃密な思考が巡ったが、特に深く考える事はせず俺は出勤するべくその場をあとにした。

 

 

9月1日(水)晴れ

月が変わった。1日という月の初めは、いつも特別な雰囲気だけを放出しながらその実普通の日である。本日も変わり映えの無い普通の朝、俺は普通の朝食として卵かけご飯をかっ込み、普通に身支度を済ませて出勤するべく階段を駆け降りて行く。最下に近付いた時、完全にその存在を忘れていたプチトマトが昨日と変わらぬ姿で変わらぬ場所に鎮座しておられた。

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つまり置かれたその時から、少なくとも昨日は誰もこのプチトマトに干渉しなかったということだ。よく見ると上段のプチトマトは少し欠けており、この後の変化には上下で差が出てきそうである。あとは自然の流れのなすままにその身を、いや実を委ねるのだろう。俺はプチトマトの行く末を観察することにした。

 

 

9月2日(木)雨

本日はあいにくの雨だ。8月の後半には全国的に大雨が続いたが、大雨続きも終わり数日が経過していた。昨日から天気予報で雨が降るらしい情報は掴んでいたので、予定通りではある。洗濯物も溜まる前に処理しておいたし、一ヶ月ぶりに愛車もキレイにしておいた。雨の降り方によっては汚れがひどくなるからだ。しかし、珍しく洗車などしたからか、予想以上の大雨が降っていた。そうなるとプチトマトの様子も気になるというもの。俺は卵かけご飯をかっ込み、身支度を済ませて家を出た。果たして無事でいてくれるか…

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いてくれた。雨に晒されながらも、やはり変わらず佇むその姿。意外にも外見には腐敗した様子もない。9月とはいえ日中はそれなりに気温も上がる。とうに腐敗してもおかしくないが、たくましいものだ。そして絶妙に誰も踏まない位置に置いてあるためマンションの人流による影響を受けないその姿に、なんだか元気を貰える気さえしてくる。

 

 

9月3日(金)雨

昨日以上の大雨だ。ここまでの雨が降るとは完全に予想外だ。家を出るのも躊躇うくらいの大雨に辟易したが、会社を休むわけにはいかない。何よりプチトマトの様子も気掛かりだ。卵かけご飯をかっ込み、身支度をした。

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良かった。やはりいてくれた。しかしその姿には昨日までと比べると少し、しかし明確に違いが見られた。

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これは下段のプチトマト。こちらにはほとんど変化は無く、雨に濡れて水が滴るその姿からはここに来て新鮮さを取り戻したかのように錯覚するほどである。

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だが上段のプチトマトはどうだろう。欠けていた部分が白ばみ、うっすら泡を吹いている様子だ。腐敗が始まってしまったのかもしれない。切なさが込み上げてきたが、俺は最後まで観察する覚悟を決めて出勤した。しかしこれまで誰一人としてプチトマトに干渉した様子は無い。俺はこのマンションの治安が悪いと思っていたのだが、実は治安が良いのかもしれない。

 

 

9月4日(土)晴れ

本日は休みである。4日おきに1日の休みというサイクルの妙は、世間様と休みの足並みを揃えてくれることもある。今日ばかりは俺は孤独ではない。さすがに2日も雨が続けば洗濯物もそれなりに溜まったので処理し、家に引きこもった。俺の住む県では緊急事態宣言も発令されており、不要に外出することなどせずステイホームに努めた。けれど心のどこかでプチトマトのことは気掛かりだった。そう、俺は日中に一切家を出なかった。なんなら昼寝もして贅沢に時間を過ごした。だけれど、俺とは違いプチトマト達はずっとあそこにいるのだ。いや、もしかするともうすでにそこにいないかもしれない。胸騒ぎがしたが、夜になってから家を出る用事もあったのでそれまで待った。

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いてくれた。階段の電気を点灯し、照らされた姿を見て俺は明らかに安堵した。良かったと。直前まで呑気に惰眠を貪っていたとは思えない自らの心情の変化に、少し困惑していたが、ともかく元気な姿を見られて良かった。上段のプチトマトは泡が引き萎れ始めていたが、これも生きてるってことだ。

 

 

9月5日(日)晴れ

再び4連勤のサイクルが始まった。世間様は今日も休みなのだろう。俺はまた孤独に戻った。だがプチトマトがいてくれる。卵かけご飯をかっ込み、身支度を済ませた俺の足取りは軽やかだった。

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上段のプチトマトは明らかに腐敗が進み、終わりの時をひっそりと待つかのように、静かにその灯火を燃やしているようだった。

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下段のプチトマトもどうやらその内側では腐敗が始まっているようだった。すべてのものに終わりが来る。諸行無常とはいつもそこにあるのに我々がそれを考える事は少ない。いつか俺の身にも降り掛かるはずの光景を見て、不思議と勇気が湧いた気がした。

 

 

9月6日(月)晴れ

世間様は今日から仕事なのだろう。だが俺は昨日から仕事をしている。俺に気怠さなど無い。卵かけご飯は俺の体内を駆け巡りエネルギーを与えた。今日はいつにも増して活力があふれる気がした。気付けば身支度は終わり、何かに後押しされるかの如く俺は家を飛び出した。

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プチトマト達の姿はそこに無かった。別れは突然なのだ。そこにあることが当たり前だと思っていたものが無くなった時、いつかそうなるとわかっていたはずなのに、俺の心を空虚なものが埋めてしまった。彼らはもう戻って来ない。あるのはそこにいたという痕跡だけ。俺はプチトマト達のことが好きだったんだ。失われたものは戻らない。そして俺の心を癒やすには時間がかかるだろう。けれど忘れない。ここにプチトマトがいたことを。そして忘れないでください。俺がここに生きてるということを。

 

 

 

 

 

 

9月7日(火)晴れ

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プチトマト跡の観察を始めた。