人は赤子としてこの世に生まれ落ちた時、すぐには言葉を喋ることができない。
成長していく過程で徐々に様々な言葉を覚え、単語を発することができるようになり、2語文、3語文と喋ることができるようになり、やがて流暢な文章を喋ることができるようになる頃にはもう赤子ではなくなっている。
そうして子どもはいつしか大人になっていく。
下ネタ。
これも人の成長過程と通ずるものを感じられないだろうか。
覚えたての頃は単語を発して喜んでいるが、保健の教科書を熟読していくうちに単語では満足できなくなり、2語文、3語文と喋ることができるようになり、やがて流暢な下ネタ文を喋ることができるようになる頃には晴れて大人の仲間入りというわけだ。
大人になってしまった今、不用意な単語で笑うことはできないだろう。前後の文脈を綺麗に繋ぎ、舞台背景を想像させながら、的確な言葉を選び抜いた文章を話すことで初めてウケる。
これが一般的な社会人の姿であり、お洒落というものだ。
だが三つ子の魂百までということわざにもあるように、大人になったって下ネタに分類される単語そのものは好きなのだ。むしろ大好きなのだ。
いくら大人になったって子どもの心を忘れてしまったわけではない。
私たちは忘れてはいけない。
あの輝かしい時代を。
小学生の時分、僕の住んでいたアパートには年の近い子どもたちが集まって遊ぶことが多かった。
その日もボール遊びなんかをしたりして、運動神経の人一倍劣っている僕は何も活躍することのないまま疲れて座り込んでしまっていた。
そのままみんなで座っておしゃべりをしていると、近所のおばさんが帰ってきたりしてきて、ジュースとお菓子をもらっていよいよおしゃべり大会へとステージが移行した。
運動ができないからと言って頭が良いわけでもなかった僕のべしゃりが冴え渡ることなどなかったが、その日はどうやら様子が違った。
前日、僕は父と風呂に入っていた。
親子での入浴であるが、男同士の裸の付き合いでもある。男としての闘争本能が僕の視線を父の股間へと向ける。
そこにあるのは僕の股間に付いているそれとは全く異質なものだった。
圧倒的な差。僕の携える子どもちんちんとは別次元に位置するそれを見て、僕の情操は滾り震えた。つまり、感動したのだ。
この感動を誰かと分かち合いたい!
共に涙を流し、共に笑おうぞ!!
「俺の父さんの金玉、めちゃめちゃでかいよ!」
気が付けば、僕はそう叫んでいた。前後の会話の流れの一切を無視し、僕は叫んだ。
一瞬の沈黙の後、場が爆笑に包まれた。
響き渡る歓声、僕を称える声が場を埋め尽くした。
気をよくした僕は、何度も父さんの金玉の大きさを叫び続けた。
誰よりも大きな声で。何度でも。何度でも。
アパート中に僕の声が響き渡った。
一部始終を家の中から聞いていた父は、僕をめちゃめちゃに叱った。
それはもう僕の頬を伝う雫が絶え間もなく伝い続けるくらいに叱り続けた。
3時間くらい正座させられ、はちゃめちゃに怒鳴られた。
以来、僕の金玉が大きくなることはなかった。