りきすいの郷(さと)

テキスト系の記事とか、ネタ系の記事とか書きます。

わからないこと

子どもの頃は、親から怒られることに対して理解できず、納得のできないことが多くあったけれど、大人になると「なるほど、そういう訳があったのだな」と勝手に納得することも多い。

 

その理屈で言えば、私が友だちと一緒になって落ちていた氷を食べて涼を得た時に怒られたのも、今となっては納得できるし、今の私が我が親の立場であったならば当時の自分を破茶滅茶に叱りつけたことだろう。

飽きもせず毎日のように同じ面々が集まる公園に、いつもと同じように集まって遊んでいたある9月の土曜日。鬼ごっこをしていた私たちの元へ、開始からしばらく姿を眩ましていたマサヤくんがやって来て一言

氷落ちとる!冷やくて美味しい!

という報せを放った。

真夏に比べれば多少涼しくなったとは言え、まだ半袖半ズボンで駆けずり回っているようなこんな日に氷が落ちとる…?  よく意味がわからなかったが、直ちに件の場所へとやって来た私たちの幼いゆえに澄み切った瞳に映り込んだのは、言葉通りに氷が落ちている光景だった。

どういう理屈か全くわからなかったが、グレーチングの上に大きな氷塊と、それが砕けたような氷の欠片がいくつも散らばっていた。

マサヤくんは氷塊を持つとグレーチングへ勢いよく叩き付けて砕いた。氷の欠片を拾うと、それをヒョイと口に放り込む。どうやら先刻もその要領で砕いた氷を食べていたらしい。

いや、さすがに落ちているものを食べるのはどうかと一瞬だけ考えはしたが、マサヤくんがあんまりにも美味しそうに氷を頬張るので、気付けば私たちは狂ったように氷を食べていた。

落ちとる氷、美味いじゃん!  当時の私の本当に素直かつ率直な感想である。これをご覧になっている皆さまと同じように、私も例に漏れずハンバーガー屋のジュースに入っている氷の粒は全てバリボリ食べ尽くすタイプの子どもだったので、氷が落ちていることに対する喜びは絶大なものでした。

帰宅した私が嬉々として1日の出来事を話し、その後凄まじく怒られて地獄を見たということは、ここまで読んだ皆さまならば想像に難くないことでしょう。

 

私は何故怒られたのか?

大人になった今ならわかる。落ちているものを食べるのは危ないからだ。

万が一得体の知れない悪い菌などを摂取し、それが身体の中で悪さをしようものならば、苦しい思いをするのは他ならぬ私だからだ。

我が親は、私のことを想いそれを伝えようとしてくれたのである。

 

しかし、当時10歳の私が2時間もの間正座で説教を受け、その後も数年に渡り考え続けた末に辿り着いた答えは親に黙って外で物を食べてはいけないというものだった。

 

理由はある。

 

その日も例の公園で缶蹴りをして遊んでいた。

小学6年生の私は鈍臭い上にデブだったので、一度鬼になってしまったら最後、二度と逃げ手に復帰することは無かったのである。

その日も実に退屈な、遊びとは名ばかりのハブりを受けていた。

一応の建前で私が缶を守っていると、すぐ近くで外国人のグループがバーベキューをしていた。それはそれはオーソドックスなバーベキュー。映画の中で何度か見たことがあるくらいにオーソドックスだった。

デブだった私の食い意地は相当なもので、余程物欲しそうに眺めていたのだろう。外国人グループの1人が私に声を掛けてきた。

キミも、食ベル?

たどたどしくも優しく投げかけられた問いに対し私は7回くらい首を縦に振り、焼きたての肉や海老などを頂いた。

外で遊んでいる最中、見ず知らずの外国人からもらって食べる肉はその特別感も相まってか、かつて味わったことのない程、美味に感じた。そういえば春休みだったような気もする。特別感がオーバーフローしていた。

僕が至福の時を過ごす間に缶をめちゃめちゃ遠くまで蹴られていたけれど、外国人って優しいんだなと、幼いながらに感動したのを覚えている。

 

そうして帰宅した私が嬉々として1日の出来事を話したわけだが、私はこの後凄まじく怒られ、地獄を見ることとなった。2時間の正座もした。

私は何故怒られたのか?

あれから12年が経過して私は大人になったけれど、未だにわからない。

叫び

※本記事は「世間知らずで社会をナメきっている若造が、その無知さ故、ちっぽけな主観と足りない想像力を以って愚かにも好き勝手なことを書く」といったものとなっております。中には、それちがうよ?というような内容もあろうかと思いますが、その際にはどうか寛大な御心で「それちがうよ?」と御指摘いただければ幸いです。指摘されて伸びるタイプです。ただ、決して力強く批判したりなど致しませぬよう御留意ください。何せ非常にナイーブ且つデリケートな生き物ですので、少しでも怒られてしまうとそのまま土に潜ったまま化石になり、100万年の時を経て発掘という形で地上に引きずり出された挙句、博物館に展示されてしまう可能性が非常に高いです。意志の薄い筆者にも嫌なことはありますので、どうか温かい目で見守ってくださいますよう、厚く御願い申し上げます。季節の変わり目で体調管理が難しい時期です。風邪など引かれませぬようどうか御自愛ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

便利な時代になった。

 

そう感じたことはあるだろうか。

実を言うと、僕にはあまりその実感が無い。

この世に生を受けて、かれこれ24年が経つわけだけれど、果たして便利さを享受できているかと言えば、胸を張って謳歌しているとは言い難いものだ。

そう言うと、苦労が大好きな過去の栄光と見栄に縛られた老害共がしゃしゃり出てきて

「たかだか24年くらいじゃあ何もわからなくて当然だ。もっと苦労することだな!」

みたいなことをぬかしてくる。は?

貴様等のように盲目的に買ってでも苦労さえすれば良しとされていたような暇な時代を生きてきた連中には、便利が故の苦労というものがわかっていないらしい。

 

たしかに、便利な時代になったのだろう。

インターネットが爆発的に普及し、それまでこなしていた作業にかかる時間が大幅に短縮された。わかりやすく言えば、モノを購入する際、自ら足を運んでお店に買いに行って店頭で探し、場合によっては置いてない商品はまた別の店へと探しに行き、そうしてようやく見つけてレジへ並んで購入した商品を再び自らの足で運ぶ。そうした一連の動作が現在では、スマートフォンを数回タップするだけで済むようになった。ひょっとするとフリック操作も必要になるかもしれないが、そんなものはあっても無くても変わらない。購入した商品は家で何か他のことをしていれば運送屋さんが届けてくれる。つまり、浮いた時間を他の作業にあてることができるわけだ。

以上のようなことから、人1人がこなせるタスクの量は確実に増え、それにかかるリソース量は確実に減少していると言えるだろう。別に買い物に限った話ではない。何かを行うために出力できる速度が、音速をもぶち抜く勢いで上昇している。今の世の中に蔓延する極端な疾走感にはこういう理由もあるのだ。

暮らしが便利になるというのは、非常に良いことだ。それは紛れも無い事実なのだろう。

 

だが、"労働"という状況下においてはこの限りではないのではないか?

先にも述べたが、人1人がこなせるタスク量は昔に比べれば確実に増えている。生産性において人1人あたりの単価が上がっているのだ。機械や道具を使いこなせるようになれば単価はまだまだ上がる。素晴らしいことじゃないか。

けれど、若い世代の賃金は昔と比べると増えるどころかむしろ減少の一途をたどっていると聞くではないか。物価は逆に上昇しているので、カタログスペック以上の賃金カットを世の中では実施されている。生産性は向上しているのに、だ。

にもかかわらず、2018年にもなって未だにパソコンすらろくに使いこなせず、「どうせわからないから使い方を聞いても覚える気の無い」老害どもの方が大抵給料は高い。

もちろん、パソコンを使えるかどうかだけが給料の判断基準では無い。勤続年数を長く重ね、その分だけ社会に貢献してきた人間の方が、若く元気なだけが取り柄の雑魚よりも給料が高いことは頭では理解できるし、今後の自分の保身の為にもそうであって欲しいとは思う。でも、だからって納得はできない。

一体あと何回ひな形ファイルを"上書き保存"すれば気が済む?その度に人知れず作り直すこと数回。うんざりした結果個人フォルダへひな形を複製し、上書き保存がされる度に再びデスクトップ上に保存されているひな形ファイルへ上書きコピーをする。無駄動作は無くすべきであって効率化するものではない。

そのくせ頻繁に元のひな形ファイルを更新しやがるので、その度に個人フォルダのひな形も更新しなければならない。完全なる無駄。完全な無。無。

ちなみに"ひな形ファイル専用フォルダ"を作るつもりはない。ファイルが消えた!と喚き立てる輩がいるからだ。そんな奴らに一々ファイルの場所と探し方を教えてやる時間も無駄だ。事件は繰り返されるからである。

ここ最近ではパソコンの操作について尋ねられても「あー、それ僕でもわかんないっすねー」などとトボけるスキルも身に付けたが、それはそれで元・商業高校生のプライドが傷付くし、何せ他に回答を出せる人間が同じ職場におらず、上司や先輩がこぞって

「どうしよう…」「本社に確認してみようか」

「それでもわからなかったらお手上げだな!」

などと言ったりする。いや、一回ググれよ。

仕方なくネットで調べた体を装って10秒くらいで解決してやるのだが、その度に「いやー、さすがはりきすい君だ!これからも頼むよ!」などと言ってくる。いや、頼むなよ。おめえらもやってくれよ!これ以上俺のリソースを奪うな!頼むから!

 

組織において固有スキルを持つことの有用性は良く理解しているつもりだし、褒められればまんざらでもない。しかし、僕自身も決してパソコンに詳しいわけではないので、正直その程度の知識で完全に慢心してしまえる自分を恥ずかしく思う。違う環境へ置かれればクソほどの役にも立たないというのに。

 

 

話は逸れてしまった気がするが、結局のところ何を伝えたいのかというと、

 

 

 

 

 

 

給料!

給料を上げてくれ!

俺はお金がだーいすきなんだ!!

まじで!賃金!!

お賃金もらうことだけが生き甲斐だからさあ!!

もっともっとお賃金がほしいの!!!!

あと不当なサービス労働は無くそう!

ほら、現実的に難しかってもさあ、一旦無くしてみよ?

やってみなくっちゃわかんないからさ、その重い腰を上げて一旦やってみよ?ほんとに一旦で良いからさ!ダメだったらダメでも良いからさ!!

頼むよ!ね?

 

 

お金、ください。

社会人として生きるということ

何の苦労も知らないで生きてきたように見えるかもしれないけれど、僕だって社会人なのだから毎月のノルマを抱えているわけで。

実に些細なノルマだ。コンディションさえ万全ならば月の1週目で達成してしまえるほどに。

本音を言ってしまえば、どんな些細なノルマでも抱えたくはない。だけど、それが社会人として生きるということなのだ。ぼんやりと生きていくなんて、張り合いが無くてつまらないじゃないか。

 

 

 

僕は幼い頃からよく鼻血を出す。

それはもう頻繁に出す。

 

 

 

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まあ、幼い頃は鼻くそをほじくったりなんてしていれば、その貧弱な爪でも鼻孔の粘膜を傷付けることなど容易いわけで、ある程度仕方のないことだったのだと振り返って思う。

しかし僕は24歳の現在に至るまで、頻繁に鼻血を出す男として周囲より認知されている。

 

 

 

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これは22歳の頃、朝起きてすぐの写真なのですがまあ見事に鼻血を出している。これほどまでに鼻血らしい鼻血を他の誰かが流している様を、未だかつて僕は見たことがない。

この時はあんまりにも衝撃的で感動したので、寝ぼけ眼で友人にこの写真を送り付けたところ、すぐに拡散してくれたそうです。シェアする精神、大事。

 

そんな感じで爪を切るよりも鼻血を出す方が多いものですから、いつしか僕は周囲にこのように告げ始めるわけです。

 

鼻血ですか?まあ月3は堅いですね!

 

何を戯言ほざいてんだ!みたいな空気を感じることもあるが、正直これはかなりハードルを低く見積もっている。ひどい時には月の3分の1は鼻血を見るのだ。月に3回どころの話ではない。3分の1だ。10日。

別にわざと強めに鼻をほじってみたりとか、顔面をどこかに強く打ち付けたりしてみるわけではない。むしろそういう時ほど鼻血は出ない。かと言って念じれば鼻血が出るわけでもないのだが。

例えば車で走行中に、突然鼻から唇へ伝う赤い液体の温かさを感じたとしよう。100人中99人はパニックになるだろう。そりゃそうだ。大人になれば擦り傷を負う機会も激減するし、そもそも血を目にすることもそうそう無いだろう。しかも突然のことなので着ている衣服は赤く染まるし、身体の不調である可能性も脳裏をよぎるだろう。

 

では、100人中1人は?それが僕なのだ。

なんだまたか。という具合に車内に常備してあるティッシュを数枚取り、

 

 

 

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こういう具合に挟み込むことで難を逃れ、信号などでちょっと停まった隙に慣れた手つきでティッシュを丸めて鼻孔に押し込む。言うまでもないが車の運転はハンズフリーで臨まなければならない。車を運転する全ての者が守るべきマナーだ。鼻血が出ていようと関係ないのだ。

こうして被害は最小限に抑えられる。当然、滴り落ちた血液が衣類を汚すことも無い。万が一血液が付着したとしても、洗濯機にかければ意外と目立たなくなることを知っているので、別段動じることも無い。

僕はずっとそうして鼻血と向き合ってきたのだ。何よりも鼻血に対してだけは誠実に生きてきたつもりだ。

 

鼻血ですか?まあ月3は堅いですね!

 

こうして些細なノルマを自らに課し、難なくそれをこなしてきた。

しかし今月はどうも雲行きが怪しい。

2月になってもう半月が経過していると言うのに、鼻血が出ない。

別に鼻血なんて出なければ出ないに越したことはないのだが、月3は堅いと言っているのならば月3出さなければ嘘になってしまう。月2でも嘘なのだ。

もし一度でも月3で鼻血が出ていないという実績を作ってしまえば、僕は嘘つきのレッテルを貼られ、これまで積み重ねてきた社会的信用をたちどころに失ってしまうだろう。それだけは避けねばならない。

欲を言えば5回は出しておきたいところなのだが、まずは最低限のノルマである3回。ここは確実にこなしておきたい。まずはそれからだ。

今月の稼働日数はあと13日だ。予算達成に向けて突っ走っていくぞ!

 

 

 

 

 

 

 

なんて考えていたら鼻血が出た。これはマジ。

 

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