りきすいの郷(さと)

テキスト系の記事とか、ネタ系の記事とか書きます。

手記

枝葉生い茂る灼熱の季節も間も無くと言ったところか、最近陰惨とした気候が続いている。暑くそしてジメジメした気候。爽やかな夏に向けた助走期間と言えば聞こえは良いが、快適に過ごすには文明の利器に頼らなければなかなかに難しい環境だ。毎年のこととは言えそうそう慣れられるものではない。特に今年は気分も陰惨としている。新型コロナウイルスの脅威によるパンデミックSNS上での誹謗中傷、人々の死・・・昨年の高速道路あおり運転事件が遥か遠い昔のように感じる。

豆苗を育てていた。世間の狂騒をかき消すように心穏やかに育てていた豆苗を、俺はあっさり捨ててしまった。三度の収穫を終えた後虫が寄り付き始めたからだ。しかし元来動植物を育てることを不得手としていた俺がよくぞここまでもった方だと褒めたい。ちょうど日々の水換えに虚しさを覚えていた頃だった。所詮スーパーで買った豆苗。育ちも悪くなったし良い頃合いだったのだろう。

とんでもない苦行ならば耐えられるものではなかっただろう。早々にリタイアしていたに違いない。しかしぬるい刺激を日々受け続けるのも、それは永遠のように感じられるもので、俺にとってそれは精神的にはゆるやかに死に向かうようなものだ。やがてそこに意味を見出せなくなる。俺という人間はまさしくそういった者なのだ。

 

塩梅(あんばい)という言葉がある。物事の加減を指すような意味で使われる言葉だが、俺はまさしく人生における刺激の塩梅を間違え続けているのかもしれない。

これから先、俺の身に一体どれほどの転機が訪れるというのだろう。憶測に過ぎないが、きっと数えるほども無い。むしろ転機はもっと過去にたくさん訪れていたのかもしれない。そう考えると今にして思えばあれは転機だったのかもしれないと思える出来事が既にいくつか思い当たるものだ。大人になってから子供の頃のように多くの転機に恵まれることなどないのだろうが、やはり塩梅の問題だろう。もっとちょうど良い塩梅があったのではないか。この世の中、成熟した者に対して用意される選択肢があまりにも少な過ぎはしないか。いや、俺の問題だ。強い刺激を求めながら、俺は同時に穏やかな時の流れに身を置くことで安寧を得ることを求めてもいるのだ。いつだって自分の道を切り開くのは他ならぬ自分だ。環境のせいにして今の自分に甘んじているのもまた自分なのだから。しかし結局、人生における刺激の強弱なんてのは大した問題ではない。好むと好まざるとに関わらず、人が多くの転機や刺激を経て最後に訪れる転機、その刺激の名は「死」。

ん?と疑問に思う間も無いだろう。その時はすべての生命に等しくそして刹那の瞬間に到来するのだから。

 

ぶ厚い本を閉じて思うのは、こんなもん読んで結局何になるんだってことだ。哲学的な話だが胡蝶の夢という考え方がある。自分が現実だと信じている"生"なんてのは無く、すべては一羽の蝶が見ている夢なのかもしれない。あの小さな頭でこのぶ厚い本のような難しい話が理解できようはずもない。けれどもし本当に、現実と思っているこの世界が一羽の蝶が見ている夢ならば、それこそすべては蝶の中に収まるデータベースの一端に過ぎない。結局俺のような者が何を感じようとも胡蝶は夢を見続けるのだろう。そう考えると人生ってのは嫌と言うほど儚い。しかし現実であるか胡蝶の夢であるか、それは些末な問題に過ぎない。ここで重要なのは、どちらにせよ時間は等しく流れるということ。どうでも良いことをどうだこうだと悩むくらいならもっとタメになることをしたらどうか。そのような教訓を、この話から受け取ることができる。何をしようと万物の営みは巡るのだ。拡がりを見せながらも、結局同じようなことを繰り返す。それが世の常だ。

の というひらがなを見てみろ。そのような様を表しているだろう。現実だろうが胡蝶の夢だろうが関係無い。結局俺がどう足掻こうが物事はなるようにしかならないのだ。

炊事、洗濯、排泄、日常から行うさまざまな営みのすべてに意味を見出すことは無い。しかし必要だからこそ繰り返すのだ。世の中の出来事のすべてを比較しても一つとして全く同じものはないだろう。だが大きな輪の中での話ならば、一つとして違うものはない。すべてが違う事象であるにもかかわらず、それらすべては繋がっている。すべての事象が起こるのは必然の理なのだ。

 

きっとあなたは俺の言の葉をただの戯言と切って捨てることだろう。しかし冷静に考えるとあながち素っ頓狂なことでもないということは、わかっていただけないだろうか。

込み入った話になるが、俺にはある種の未来予知能力がある。突拍子も無い話だが大真面目だ。デジャヴってあるだろ。俺の身にはあれが頻繁に起こるのだが、どうにもそのデジャヴは俺の常識の範疇を超えているように思う。普通デジャヴは過去に似た経験をしているために起こると考えられているが、俺の場合のデジャヴは明らかに初めて起こるはずの事象に対して起こることがある。それだけならまだただのデジャヴだが、これまでに数度、デジャヴが予知の域に達したことがある。生活しているとふとその瞬間にその後の景色や人物のセリフが脳内に舞い降りて、その後完璧にその通りに事象を再現するのだ。たった数秒の出来事だが、この瞬間俺はこれから起こる事象を完全に知っていたのだ。これを予知と言わずして何と言う。しかし俺のこれは超能力の類ではないとする仮定をここに示したい。

みょうちくりんな話をしていることは重々承知の上で続けさせてほしい。俺はこの人生を幾度と無く繰り返しているのではないだろうか。輪廻転生の概念は多くの人が知るところだろう。器は変われどその魂は不変のものであるとし、この世で生を終えた霊魂は時を超えて別の器に宿り、生まれ変わるとされている。にわかには信じ難い話かもしれないが、この考え方は大変興味深い。しかし俺はこの考え方をさらに派生させて一つの仮説を提示したい。俺の魂はどういうわけか輪廻転生の器を俺に固定しているんじゃないのか。そうして輪廻転生を繰り返し幾度と無く同じ人生、同じ経験を繰り返した俺の魂は断片的に前世の俺の記憶を持ち越しているのではないか。ということだ。

ご大層なスケールの話だ。勿論証明する術も無い。しかし俺の仮説は現在の魂にとっての時間の概念に一石を投じるものだ。前世を占う占い師にとってはたまったものではないだろう。そもそも奴らは胡散臭いのだ。霊魂が時間の概念に逆らえないと決まっているのか。奴らの言う前世とは必ず過去のものだ。それに対して俺の仮説は何せ前世の器が過去現在未来のすべての時間軸に存在する可能性を示唆しているのだから。極端な話、今話している目の前の相手が前世の自分である可能性もあるという話だ。そして俺の前世は"俺"なんじゃないかということ。

飯が美味い。俺は食事が大好きだ。唯一納豆を食べることができないが、それ以外のほとんどのものを食べることができる。しかしそれも繰り返し同じ人生を経験した結果なのかもしれない。最初の人生ではもっと偏食だったかもしれない。俺は俺の人生を繰り返すことで偏食を少しずつ克服してきたのかもしれない。なんともオカルティックな話だ。自分で言っててよくわからなくなってくる。だが疑問もある。俺はこのまま永久に俺を繰り返すんじゃないのか。前世や来世に自分を選ぶと言うことは、その前もその次も自分に生まれ変わる。そもそも"最初"なんてものは存在するのか。タイムパラドクスという概念を霊魂の話に持ち込むのは無粋かもしれないが、俺はデジャヴの能力を得るかわりに魂を器に縛られているのかもしれない。

 

超えられない壁など無いというが、やがて俺の魂も俺という器から解き放たれる時がくるのだろうか。どうやら俺にそれを知る術は無いらしい。だがいつか訪れるだろうその時に向けてできることはある。

美しく生きること。容姿の話ではない。生き様の話だ。人の価値は器の価値ではなく、その生き様にこそ真の価値が宿るという。魂の在り方を考えた時、俺は美しく生きることこそが人生、いや"魂生"の永久の命題ではないかと思うのだ。

味気無い人生かもしれない。あなたもそう感じる時があるだろう。しかしそれこそ現実であるか胡蝶の夢であるかを論ずるように無意味なこと。もっと大きな視点で見ればどんな出来事も魂に刻む刺激だ。生命尽きる時は器の死ではなく魂の死だ。美しく今を煌めくのだ。自ずと道は切り開かれるだろう。

 

いつも心にこのようなことを、秘めているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、俺がこの記事を通して本当に伝えたかったことにあなたは気付いただろうか。誰にだって伝えたいことの一つや二つあるだろう。しかし一種の気恥ずかしさみたいなものが素直な伝達を阻害するのだ。俺はどうにも不器用らしい。

答えは縦読みだ。各段落の頭の文字を繋げて読むと良い。

行くぞ・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

葉生い茂る灼熱の季節も間も無くと言ったところか、最近陰惨とした気候が続いている。暑くそしてジメジメした気候。爽やかな夏に向けた助走期間と言えば聞こえは良いが、快適に過ごすには文明の利器に頼らなければなかなかに難しい環境だ。毎年のこととは言えそうそう慣れられるものではない。特に今年は気分も陰惨としている。新型コロナウイルスの脅威によるパンデミックSNS上での誹謗中傷、人々の死・・・昨年の高速道路あおり運転事件が遥か遠い昔のように感じる。

苗を育てていた。世間の狂騒をかき消すように心穏やかに育てていた豆苗を、俺はあっさり捨ててしまった。三度の収穫を終えた後虫が寄り付き始めたからだ。しかし元来動植物を育てることを不得手としていた俺がよくぞここまでもった方だと褒めたい。ちょうど日々の水換えに虚しさを覚えていた頃だった。所詮スーパーで買った豆苗。育ちも悪くなったし良い頃合いだったのだろう。

んでもない苦行ならば耐えられるものではなかっただろう。早々にリタイアしていたに違いない。しかしぬるい刺激を日々受け続けるのも、それは永遠のように感じられるもので、俺にとってそれは精神的にはゆるやかに死に向かうようなものだ。やがてそこに意味を見出せなくなる。俺という人間はまさしくそういった者なのだ。

 

梅(あんばい)という言葉がある。物事の加減を指すような意味で使われる言葉だが、俺はまさしく人生における刺激の塩梅を間違え続けているのかもしれない。

れから先、俺の身に一体どれほどの転機が訪れるというのだろう。憶測に過ぎないが、きっと数えるほども無い。むしろ転機はもっと過去にたくさん訪れていたのかもしれない。そう考えると今にして思えばあれは転機だったのかもしれないと思える出来事が既にいくつか思い当たるものだ。大人になってから子供の頃のように多くの転機に恵まれることなどないのだろうが、やはり塩梅の問題だろう。もっとちょうど良い塩梅があったのではないか。この世の中、成熟した者に対して用意される選択肢があまりにも少な過ぎはしないか。いや、俺の問題だ。強い刺激を求めながら、俺は同時に穏やかな時の流れに身を置くことで安寧を得ることを求めてもいるのだ。いつだって自分の道を切り開くのは他ならぬ自分だ。環境のせいにして今の自分に甘んじているのもまた自分なのだから。しかし結局、人生における刺激の強弱なんてのは大した問題ではない。好むと好まざるとに関わらず、人が多くの転機や刺激を経て最後に訪れる転機、その刺激の名は「死」。

?と疑問に思う間も無いだろう。その時はすべての生命に等しくそして刹那の瞬間に到来するのだから。

 

厚い本を閉じて思うのは、こんなもん読んで結局何になるんだってことだ。哲学的な話だが胡蝶の夢という考え方がある。自分が現実だと信じている"生"なんてのは無く、すべては一羽の蝶が見ている夢なのかもしれない。あの小さな頭でこのぶ厚い本のような難しい話が理解できようはずもない。けれどもし本当に、現実と思っているこの世界が一羽の蝶が見ている夢ならば、それこそすべては蝶の中に収まるデータベースの一端に過ぎない。結局俺のような者が何を感じようとも胡蝶は夢を見続けるのだろう。そう考えると人生ってのは嫌と言うほど儚い。しかし現実であるか胡蝶の夢であるか、それは些末な問題に過ぎない。ここで重要なのは、どちらにせよ時間は等しく流れるということ。どうでも良いことをどうだこうだと悩むくらいならもっとタメになることをしたらどうか。そのような教訓を、この話から受け取ることができる。何をしようと万物の営みは巡るのだ。拡がりを見せながらも、結局同じようなことを繰り返す。それが世の常だ。

 というひらがなを見てみろ。そのような様を表しているだろう。現実だろうが胡蝶の夢だろうが関係無い。結局俺がどう足掻こうが物事はなるようにしかならないのだ。

事、洗濯、排泄、日常から行うさまざまな営みのすべてに意味を見出すことは無い。しかし必要だからこそ繰り返すのだ。世の中の出来事のすべてを比較しても一つとして全く同じものはないだろう。だが大きな輪の中での話ならば、一つとして違うものはない。すべてが違う事象であるにもかかわらず、それらすべては繋がっている。すべての事象が起こるのは必然の理なのだ。

 

っとあなたは俺の言の葉をただの戯言と切って捨てることだろう。しかし冷静に考えるとあながち素っ頓狂なことでもないということは、わかっていただけないだろうか。

み入った話になるが、俺にはある種の未来予知能力がある。突拍子も無い話だが大真面目だ。デジャヴってあるだろ。俺の身にはあれが頻繁に起こるのだが、どうにもそのデジャヴは俺の常識の範疇を超えているように思う。普通デジャヴは過去に似た経験をしているために起こると考えられているが、俺の場合のデジャヴは明らかに初めて起こるはずの事象に対して起こることがある。それだけならまだただのデジャヴだが、これまでに数度、デジャヴが予知の域に達したことがある。生活しているとふとその瞬間にその後の景色や人物のセリフが脳内に舞い降りて、その後完璧にその通りに事象を再現するのだ。たった数秒の出来事だが、この瞬間俺はこれから起こる事象を完全に知っていたのだ。これを予知と言わずして何と言う。しかし俺のこれは超能力の類ではないとする仮定をここに示したい。

ょうちくりんな話をしていることは重々承知の上で続けさせてほしい。俺はこの人生を幾度と無く繰り返しているのではないだろうか。輪廻転生の概念は多くの人が知るところだろう。器は変われどその魂は不変のものであるとし、この世で生を終えた霊魂は時を超えて別の器に宿り、生まれ変わるとされている。にわかには信じ難い話かもしれないが、この考え方は大変興味深い。しかし俺はこの考え方をさらに派生させて一つの仮説を提示したい。俺の魂はどういうわけか輪廻転生の器を俺に固定しているんじゃないのか。そうして輪廻転生を繰り返し幾度と無く同じ人生、同じ経験を繰り返した俺の魂は断片的に前世の俺の記憶を持ち越しているのではないか。ということだ。

大層なスケールの話だ。勿論証明する術も無い。しかし俺の仮説は現在の魂にとっての時間の概念に一石を投じるものだ。前世を占う占い師にとってはたまったものではないだろう。そもそも奴らは胡散臭いのだ。霊魂が時間の概念に逆らえないと決まっているのか。奴らの言う前世とは必ず過去のものだ。それに対して俺の仮説は何せ前世の器が過去現在未来のすべての時間軸に存在する可能性を示唆しているのだから。極端な話、今話している目の前の相手が前世の自分である可能性もあるという話だ。そして俺の前世は"俺"なんじゃないかということ。

が美味い。俺は食事が大好きだ。唯一納豆を食べることができないが、それ以外のほとんどのものを食べることができる。しかしそれも繰り返し同じ人生を経験した結果なのかもしれない。最初の人生ではもっと偏食だったかもしれない。俺は俺の人生を繰り返すことで偏食を少しずつ克服してきたのかもしれない。なんともオカルティックな話だ。自分で言っててよくわからなくなってくる。だが疑問もある。俺はこのまま永久に俺を繰り返すんじゃないのか。前世や来世に自分を選ぶと言うことは、その前もその次も自分に生まれ変わる。そもそも"最初"なんてものは存在するのか。タイムパラドクスという概念を霊魂の話に持ち込むのは無粋かもしれないが、俺はデジャヴの能力を得るかわりに魂を器に縛られているのかもしれない。

 

えられない壁など無いというが、やがて俺の魂も俺という器から解き放たれる時がくるのだろうか。どうやら俺にそれを知る術は無いらしい。だがいつか訪れるだろうその時に向けてできることはある。

しく生きること。容姿の話ではない。生き様の話だ。人の価値は器の価値ではなく、その生き様にこそ真の価値が宿るという。魂の在り方を考えた時、俺は美しく生きることこそが人生、いや"魂生"の永久の命題ではないかと思うのだ。

気無い人生かもしれない。あなたもそう感じる時があるだろう。しかしそれこそ現実であるか胡蝶の夢であるかを論ずるように無意味なこと。もっと大きな視点で見ればどんな出来事も魂に刻む刺激だ。生命尽きる時は器の死ではなく魂の死だ。美しく今を煌めくのだ。自ずと道は切り開かれるだろう。

 

つも心にこのようなことを、秘めているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

枝豆と塩こんぶの炊き込みご飯超美味い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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おいしっ♡