職場でぼーっとしていると、
「こんにちは!」
と、威勢の良い挨拶とともに、カチッとスーツを着こなした初老の男性が入ってきた。
何かの営業かと思ったが、相手が相手なのでこちらもハキハキと丁寧な応対をするべくスイッチを入れる。オンオフの切り替えは大事だ。
早速、男性が名刺を取り出す。流れるような動作とその自然さについ見とれてしまった。これができるオトナってやつか。威風堂々とはこのことか。
名刺を見ると、近所の社会福祉法人の事務局長ということだった。かたやこちらは入社1年未満の平社員。別に張り合うつもりなどはないが、あまりに分不相応な対峙に思えた。
とは言え、こちらもぼんやりとはしていられない。応戦せねばならない。男と男の対峙だ。この場に肩書きなんてものを持ち出すのは野暮ってもんだろ?
「本日は、どういった御用件でしょうか?」
今の俺の精一杯のオトナ力をぶつける!
今はまだこんなもんだが、いつか必ず、あんたのとこまで届いてみせるからな!
丁寧で冷静な対応とは裏腹に、胸の内に秘める感情はとても熱かった。そうだ、場合によってはコーヒーを出す必要もある。ポットの湯は沸いているな。茶菓子も…ある!
冷静な思考、心地よい程の緊張、十分に沸いたポットの湯。条件は揃っている。
強者と対峙することで未だかつてない充足感が俺を満たした。それは瞬間的に俺のオトナ力を高めた。まさに刹那の出来事。
力がみなぎる。なんだかわからんが、やってみるしかねえ!
「この辺りにお住まいの田中さんの家の場所、わかりますか?」
男性から飛び出た質問に、俺は答えなくてはならない。質問の内容に若干拍子抜けこそしたが、どういう事情で訪ねてきたのか定かではないにせよ、彼は客人なのだ。ひょっとすると要人かもしれない。事情がわからない以上、迂闊なことはできない。もしもヘタを打てば、俺の今後の社会生活にも関わるかもしれない。ここは正直に、誠実な応対をしなくてはならない。
しかし、馬鹿正直に「いや、知らんし」などと断るわけにもいかない。俺はオトナだ。こういう時の言葉だってすぐに浮かぶぞ!
「大変申し訳ございません。ちょっと存じ上げないのですが…」
"ちょっと"という部分に我が事ながら青さを感じるが、"ですが…"と締めて次の動きを相手に委ねるテクニックを瞬時に使えたことで、やはり俺のオトナ力は高まっているのだと確信した。今は敵わなくとも、このままやり過ごすしかない!
「そうですか。わかりました!」
そう言って、男性は出て行った。
男性は、出て行った。
え?田中さんの家の場所をただ聞きに来ただけ?無関係の会社に??
去り際に男性が言った、「いやー、住所を聞き忘れましてね!」という言葉が印象的だった。聞けよ。
「この会社の近くとしか聞いてないんですよ!」と続ける。いや、知らんし。聞けよ。
知らねえおっさんに知らねえおっさんの家の場所聞かれただけの俺はどうしたらいい?知らねえババアの家かもしんねえけどよ。そこのクイズなんかいらねえんだ。
振り上げた刀の振るい先が見当たらなくなった俺は、間抜けに刀を振り上げたまま、ただ呆然と立ち尽くすのだった。
その後は特に上司に何の報告もせず、いただいた名刺はシュレッダーにかけた。だっていらねえし。