りきすいの郷(さと)

テキスト系の記事とか、ネタ系の記事とか書きます。

俺がどれくらい橋本環奈を好きなのか、お前らは知らないだろ?知らないよなあ?

だから聞かせてやる。覚悟するんだな。

 

俺と環奈の出会いは決して劇的なものではなかった。その辺を歩いてる知らない人々とすれ違う時、彼らを一々記憶にとどめるか?違うだろ?俺と環奈の出会いも、そういった平凡で月並みの凡庸なものだった。ただ何度か顔を見る機会が続いたので、なんとなくその存在を認知している程度の、そんな関係だったんだ。

いつしか環奈がいかに可憐であるかを叫ぶ声を、少しずつだが周りから聴くようになった。最初は小さな波紋に過ぎなかったが、それは次第に大きな波となり、やがて遥か頭上から俺を押し潰さんばかりの巨大な唸りとなって襲いかかってきた。集団心理ってのはとてつもないパワーを内包している。俺がその巨大な奔流の片鱗に触れた頃には、もうすっかり俺は環奈の虜だった。

ここで忘れて欲しくないのは、他の如何なる存在も橋本環奈の前では森羅万象全て平等に凡庸の徒と成り下がるという不変の事実だ。橋本環奈という概念の名の下に、人は皆平等なのだ。そこに優劣の差などは無く、種の垣根を超えて本質的に同じ生命であることに他ならない。犬も猫も、あなたもわたしも。

俺が死ぬ時はお前たちが死ぬ時であり、お前たちが死ぬ時もまた、俺が死ぬ時なのだ。死が二人を分かつんじゃあない、死が、お前らと橋本環奈を分かつんだ。

だけど安心してほしい。最初から橋本環奈は俺やお前たちのような凡夫と同じ世界にはいない。だって、橋本環奈とは概念なのだから。"死"によって、その当たり前の真実に目覚めるのだ。その時初めて、我々の魂は本当の意味での救いを得ることができるのだろう。

これは宗教や政治といったショボいチャチな話じゃあ断じてない。俺たちが生きているこの世の絶対の理(ことわり)だ。受け入れなくてはならない、不変の真実なんだ。

 

だから、共に滅びよう。それが定めだ。

もしもお前が橋本環奈の定めた運命に抗うと、そう言うのなら…

 

 

                   橋本環奈を、

   この美しくも醜い平凡な地上に、

              引きずり堕とそう。

 

 

それが叶うのならば、俺は他に何もいらない。

 

 

 

 

 

 

 

はしもと-かんな【橋本環奈】

[名・形動]この世で最も美しく可憐な女性の総称。美しく可憐で他に同等以上の存在のいないこと。また、そのさま。「あの家の一人娘はとても橋本環奈だ」「橋本環奈な虫」

不毛

職場でぼーっとしていると、


「こんにちは!」


と、威勢の良い挨拶とともに、カチッとスーツを着こなした初老の男性が入ってきた。

何かの営業かと思ったが、相手が相手なのでこちらもハキハキと丁寧な応対をするべくスイッチを入れる。オンオフの切り替えは大事だ。


早速、男性が名刺を取り出す。流れるような動作とその自然さについ見とれてしまった。これができるオトナってやつか。威風堂々とはこのことか。

名刺を見ると、近所の社会福祉法人の事務局長ということだった。かたやこちらは入社1年未満の平社員。別に張り合うつもりなどはないが、あまりに分不相応な対峙に思えた。

とは言え、こちらもぼんやりとはしていられない。応戦せねばならない。男と男の対峙だ。この場に肩書きなんてものを持ち出すのは野暮ってもんだろ?


「本日は、どういった御用件でしょうか?」


今の俺の精一杯のオトナ力をぶつける!

今はまだこんなもんだが、いつか必ず、あんたのとこまで届いてみせるからな!

丁寧で冷静な対応とは裏腹に、胸の内に秘める感情はとても熱かった。そうだ、場合によってはコーヒーを出す必要もある。ポットの湯は沸いているな。茶菓子も…ある!


冷静な思考、心地よい程の緊張、十分に沸いたポットの湯。条件は揃っている。


強者と対峙することで未だかつてない充足感が俺を満たした。それは瞬間的に俺のオトナ力を高めた。まさに刹那の出来事。

力がみなぎる。なんだかわからんが、やってみるしかねえ!

 

 

 

 


「この辺りにお住まいの田中さんの家の場所、わかりますか?」

 


男性から飛び出た質問に、俺は答えなくてはならない。質問の内容に若干拍子抜けこそしたが、どういう事情で訪ねてきたのか定かではないにせよ、彼は客人なのだ。ひょっとすると要人かもしれない。事情がわからない以上、迂闊なことはできない。もしもヘタを打てば、俺の今後の社会生活にも関わるかもしれない。ここは正直に、誠実な応対をしなくてはならない。

しかし、馬鹿正直に「いや、知らんし」などと断るわけにもいかない。俺はオトナだ。こういう時の言葉だってすぐに浮かぶぞ!

 


「大変申し訳ございません。ちょっと存じ上げないのですが…」

 


"ちょっと"という部分に我が事ながら青さを感じるが、"ですが…"と締めて次の動きを相手に委ねるテクニックを瞬時に使えたことで、やはり俺のオトナ力は高まっているのだと確信した。今は敵わなくとも、このままやり過ごすしかない!

 


「そうですか。わかりました!」

 


そう言って、男性は出て行った。

男性は、出て行った。

 

 

 

 


え?田中さんの家の場所をただ聞きに来ただけ?無関係の会社に??


去り際に男性が言った、「いやー、住所を聞き忘れましてね!」という言葉が印象的だった。聞けよ。


この会社の近くとしか聞いてないんですよ!」と続ける。いや、知らんし。聞けよ。


知らねえおっさんに知らねえおっさんの家の場所聞かれただけの俺はどうしたらいい?知らねえババアの家かもしんねえけどよ。そこのクイズなんかいらねえんだ。

振り上げた刀の振るい先が見当たらなくなった俺は、間抜けに刀を振り上げたまま、ただ呆然と立ち尽くすのだった。


その後は特に上司に何の報告もせず、いただいた名刺はシュレッダーにかけた。だっていらねえし。

「大人になる」ということ

私は現在、25歳である。

あなたは大人ですよと正式に世間から認められて早5年。社会人としても順調に経験を積んでおり、そろそろ中堅への扉を3回ノックするビジョンも見えてきた頃合いである。ちなみに扉を2回しかノックしないのは便所ノックと言って、トイレの空室を確認するためのノックだから失礼に当たるらしく、さらに言えば3回ノックも略式であるため、4回ノックをするのが最も礼儀正しいのだとか。そんなことは賞味期限を2週間過ぎた物を食べたのにまったくお腹を壊さなかった話を聞かされたかのようにどうでもいいことであるが、このようなウンチクをのたまうことができるようになるくらいには社会経験を積んだということだ。

しかし、そんな私にも悩みがある。

 

「私は、大人になれているのだろうか──?」

 

20歳を超え、世間では大人として扱っていただいている。言葉遣いだってもう子どもの頃のそれではないし、知らない人からの電話への対応もそつなくこなせる。取引先様とお話をさせていただく時、社内の気に入らない上司を自然に呼び捨てにすることもできるようになった。しかしその実、私の本質は下品な言葉遣いを好み、知らない人とは電話なんてしたくない。取引先でなくても気に入らない上司は裏で呼び捨てにするような人間であり、とても大人のそれと呼べるような代物ではない。私が普段せっせとおこなっているそれは、所詮"大人の真似事"に過ぎないんじゃないか?と、次第にそんなことを考えるようになった。

 

ここまでが導入となるわけだが、すでに貴方はどうでもいいなという感情に呑まれつつあるのではありませんか?

そう、それこそがメンタリズムです。

 

 

さて、一度気になり始めると深みにはまってしまうのが人情というもので、私は悩むあまり仕事もろくにこなすことができなくなり、海を割り、大地を裂く日々が続いていた。やがて真昼の星空が音を立てて崩れ始めたある日、勤め先の社長が私の前で電話をしていた。何気無い仕事の会話であったようだが、その中での社長の発言を聞いたことで、私の身体に稲妻が走るような衝撃を受けたのである。

 

「いえいえ、とんでもないです」

 

とんでもない。

 

 

 

 

 

 

とんでもない!!

 

 

 

 

 

 

形容詞としてでなく、相槌としてこの言葉を使いこなせるか?と問われた時、貴方はYESと答えることができるだろうか。少なくとも私は、絶対にこれを使いこなすことはできない。

25年も生きてきたが、私はこの相槌を使ったことは無いのだ。当然使いこなせるわけがない。私は気付いた。大人になるってことは、こういうことなんだ──!

そうと決まれば目標は一つ。"とんでもない"を使いこなせるようになること。これこそが大人になる必須条件であり、この目標を達成した時、遂に私は大人になれるのだ。

いつか私は"裏"成人式の舞台に立ち、ごっこ遊びに終止符を打った暁には、この社会の真理を解き明かす旅に出よう。

 

その時までどうか、応援、してほしい。