りきすいの郷(さと)

テキスト系の記事とか、ネタ系の記事とか書きます。

革命

私は、常々この世界はつまらないものだと感じている。

どのような思想を持っていようとも、私たちは集合体の中の"個"でしかないのだ。

この集合体から飛び出そうものなら、集合体の意思によりたちまち抑え込まれてしまうだろう。

出る杭は打たれる、というやつだ。

ならば私は打たれぬ杭となり、世界に光を灯そう。

革命だ。

 

なぜ自由な思想は批判されなければならないのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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なぜかつおのタタキを食べてはいけないのか。

かつおのタタキを食することのできない文明など滅んでしまえば良いのだ。

私を否定するものは誰であろうと容赦はしない。

親兄弟だろうと、たとえ恋人だろうと、私の行く手を阻むというのであれば、生きる道を違えることとなるだろう。

たとえ孤独の道を貫くこととなったとしても、私はかつおのタタキを愛することをやめることなどできぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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たしかに、かつおのタタキを食べるとうずまきを正しく書けない身体になってしまうのは小学生でも知っている常識だろう。

それだけではない。

かつおのタタキを服用することで一時的な快楽を得ることができたとしても、その身体は徐々に、しかし確実に崩壊へと誘われるだろう。

 

 

 

 

 

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このグラフを見ていただければわかるが、驚くべきことにかつおのタタキの服用者は300年後には誰一人として生存していない。

 

残念なことだが、それは確かなデータとして存在しているのだ。

 

 

 

だが、かつおのタタキの与えてくれる快感は、それら全ての欠点を補って余りあるほど甘美なのだ。

人は何のために生まれ、生きていかなくてはならないのか。

その答えは、かつおのタタキを食べることに他ならない。

 

子曰く、一を以て鰹を貫く

 

この言葉にもあるように、かの孔子かつおのタタキを愛したと言う。

言葉の意味は私にもわからない。

だが、かつおのタタキを愛する真の心は過去も現在も、そして未来も変わらないものなのだろう。

 

たとえ私の肉体が志半ばで滅びたとしても、私の精神は次の世代へと受け継がれ、いつか必ず成し遂げてくれるだろう。

かつおのタタキを食することを、誇りとする世界。

それこそが私の唯一の望み。

ある日の夢の話

夢の世界。

それは、良くも悪くも自制の利かない世界。

理不尽な状況に置かれ、どのように願おうともその不条理から逃れる術はない。

夢の世界に降り立つと同時に、自分もその世界の登場人物となるのだから・・・

 

 

 

 

その日の夢では、特に変わった様子はなかった。

普通に仕事とかしてたり、友達と遊んだり、日常を送っていた。

ただ、ずっとおしっこが出そうだった。

 

何をしていても膀胱に感じる無尽蔵の尿意。

尽きることのない"それ"は、僕の思考をみるみる侵食していく。

耐えきれなくなり、トイレへと向かい力いっぱいの放尿。

我慢していた分、出てくる勢い・量・濃さのなんたることか。

何とも言えない解放感を感じるのも束の間、すぐさま僕の膀胱に再尿意が。

とても信じがたいことだが、膀胱を圧迫する尿意を感じながらも、僕がどれだけ念じてもおしっこが出ない。

それどころか、おしっこは出ないのに膀胱のプレッシャーは収まるどころかどんどん膨らんで行く。

 

どうしてこんな目に遭っているんだろう

 

僕は涙を浮かべながら、膀胱のプレッシャーを抑え込んでいる。

なぜ今すぐにでも解き放つことができないのだろう。

どうして、人はこんなにも無力なんだろう。

 

答えは出ない。

おしっこも出ない。

 

僕はただ、過ぎゆく時間を独り闘い続けた。